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那須温泉の変遷

▲昭和初期の鳥瞰図

那須温泉郷は、今から約1390年前の舒明2年(630)、狩野三郎行広の鹿の湯(元湯ともいう)発見に始まり、明治以前に板室、三斗小屋、大丸、北、弁天、高雄と次々に温泉が発見され、これを那須七湯といい、すでに江戸時代には世に知られていました。明治時代に八幡温泉が、大正時代には、旭、飯盛、郭公が発見され、さらに、大丸温泉の湧出湯を自然流下によって引用した新那須温泉を加えて那須十二湯と呼ばれていたこともありましたが、現在では、地理的にやや離れた板室を除いて、那須十一湯と呼ぶのがが主流となっています。
また、旭、飯盛、郭公温泉には現在、宿や温泉の設備はなく、温泉跡地と化しているため、那須温泉(鹿の湯)、三斗小屋温泉、大丸温泉、北温泉、弁天温泉、高雄温泉、八幡温泉を那須七湯、新那須温泉を加えて那須八湯と呼ぶこともあります。

那須温泉が初めて文献に現れるのは、温泉発見から約100年後、奈良時代の天平10年(738)に著された正倉院文書『駿河国正税帳』です。そこには小野朝臣が従者12人を伴って湯治のため那須温泉に向かうという記述があり、そのころすでに奈良の都にまで那須温泉が知られたことがうかがい知れます。
そのほかにも歴史上の著名人が那須温泉を訪ねた記録を挙げると鎌倉時代には、建久4年(1193)に源頼朝が那須野の狩りの際に入湯、文永2年(1265)に日蓮上人が病気療養のため湯治に訪れています。また、俳聖松尾芭蕉が、おくのほそ道の行脚の道中で当地を訪れ入湯したのが、江戸時代の元禄2年(1689)のことと伝えられております。

▲那須温泉全景

温泉湯治はもともと、将軍や大名だけが行っておりましたが、江戸時代に五街道が整備されると大名行列が盛んになり、江戸中期には庶民に温泉湯治が全国レベルで盛んになっていき、鹿の湯周辺にも宿屋などの街並みが出来てきました。

しかし、温泉場特有の火災が多く1805年、1835年、1850年と温泉街が消失する災難が続き、さらに、安政5年(1858)には大雨による未曾有の山津波(土石流)が発生し、湯川沿いの温泉や家屋が流失、死者も出る大惨事がありました。この災害後、黒羽藩主大関増徳の援助により、那須温泉神社参道にあたる湯川右岸の高台(現在の湯本本町通り)に温泉を移転。1軒当たり間口5間(約9m)ずつ地割りをし、28の湯宿が営業を再開。この地域を新屋敷といい、災害に遭った古屋敷の源泉から松の木で作った木管で湯を引き、通りの中央に5つの湯屋を造りました。このころの湯宿には内湯はなく、宿泊客は共同浴場であるこの五つの湯屋を利用していました。

▲那須温泉全景

明治時代には鉄道(東北本線)や、黒磯~那須湯本の県道が開通。温泉街も整備され、明治40年には、旅館19軒、飲食店他18軒、茶屋4軒の約40軒が営業しておりました。大正時代には内湯付きの旅館が登場し、これ以降は内湯旅館が主流となっていきます。共同浴場は、地元住民のために場所を移して残され、現在の那須湯本の原型となっていきました。
その後、第二次世界大戦時には空襲による87世帯の焼失などがありましたが、戦後の高度経済成長期には、東北自動車道、東北新幹線の開通により別荘地としても知られるようになりました。
昭和61年の総合保養地区整備法、いわゆる「リゾート法」の公布により、寮、保養所、ペンションなどの宿泊施設が激増。併せてテーマパーク等娯楽観光施設の整備などにより温泉需要も急増し「国際観光地那須」として発展してきました。
平成15年の調査では、旅館、ペンション、寮、保養所などの宿泊施設は349軒、収容数21,943人で、年間約490万人の方が那須温泉郷に宿泊しております。

▲温泉場市街